クレイン日記


図書出版クレイン の日々の記録
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by cranebook | 2008-12-26 14:50 | 雑感

沖縄に行って考えたこと

 去る22日から26日までの間、沖縄に行ってきました。石垣島に宿をとり、西表島にも渡り、四泊五日の旅を楽しんできました。じつは、この3年間、続けて沖縄に行っています。
 最初は、石垣島・竹富島と沖縄本島、昨年は西表島、そして今年は石垣島と西表島、という行程です。

 沖縄というと、人気の高い観光地で、いろいろとツアーが組まれていますが、私は、どうもそういった場所が苦手というか、興味が持てない性格なので、45歳にして、初めての沖縄でした。最初は妻に誘われて、仕方なく同行したというのが正直なところです。

 ところが、初めての沖縄で竹富島に行き、シュノーケリングで色とりどりの魚たちを見、真っ青な海水で泳ぐ感動を味わうと、その魅力に取りつかれたんですね。やっぱり人気があるということには、はっきりとした理由があるものなんです。

c0154961_1331658.jpg さて、今年で3年目、沖縄に対する興味も、また違ったベクトルに向かっていきました。それは、ひと言でいうと、八重山諸島の地理と歴史への関心です。昨年、西表島に行ったときに、炭鉱の跡地付近にまで出かけたのですが、その近辺の町並みの風景に感じ入ることがあり、そんなこともこうした関心に関係しているかもしれません。

 さて、今年は、浦内川からの遊覧船に乗って、炭坑の跡地により近づいてきました。ただし、跡地までの道のりは、樹木に覆われ、蜂の巣などもあり、ガイドなしでは近づくことができませんので、その途中までです。あと10分ほども歩くと跡地に辿り着く予定でしたが、家族連れということもあり、残念ながらあきらめました。
 ところで、その炭鉱とは浦内川の支流の宇多良川沿いにあった「宇多良炭鉱」です。ここに載せている写真は、その浦内川から宇多良川に向かうあたりのマングローブです。

 この「宇多良炭鉱」だけでなく、西表島には「西表炭鉱」と総称される炭鉱が各地にありました。そして、それらの地で採掘された石炭は、島の西端にある「白浜港」から、台湾や南方に輸送されていたのです。ということは、坑夫たちもまた、台湾などから集められ、その他、危険な作業を低劣な条件でこなせるとの考えで、囚人たちも労働力として供給されていました。

 そうした、台湾人や、囚人たち、また朝鮮人が、坑夫として、なかば強制的に集められ、過酷な作業に従事していました。ですから、島外出身の彼らは、戦後、この地に留まることなく、沖縄本島に渡ったり、故国に帰ることで、島から姿を消し、炭坑の歴史を語りきかせる機会が失われました。と同時に、島外の人たちを中心に形成された「炭坑社会」についての、島の人々の関心は薄いものでした。 
 そのことが、戦後になっても「西表炭坑」の歴史が顧みられなかった要因ともなっています。ちなみに「宇多良炭坑」は1960年代の前半まで稼働していました。

 浦内川から石炭の積み出し港である「白浜港」までの道沿いには、往時をしのばせる集落跡が点在しています。その風景は、あの時代、この場所で、人々(老若男女)は何を思い、どのように暮らしていたのか、そうした感慨を道行く者たちにかき立てます。

 台湾は戦前、「大日本帝国」の領土であり、「白浜港」は、台湾・南方航路の窓口でした。人や物が行き来し、多くの物語が生まれた場所であったはずです。しかし、その歴史は語り継がれる機会がありません。それは、とても不幸なことのはずです。

 八重山諸島から日本を考えるとか、「辺境」の歴史からナショナリズムに風穴をあけるとか、人々の移動の様相から文化の多様性を見るとか、といった大層なことは言いませんが、人は、ある時代に、ある場所で、ある状況のもとで生きざるをえない存在であり、そのことがなにものにも代え難い価値である、ということだけは確認したいと思います。

 最後に、仕事との関連でいうと、台湾と八重山諸島との関係の歴史をたんたんと記述した本を刊行したいものです。

 それにしても3年間にわたる沖縄旅行は、心底得がたい機会でした。
 
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by cranebook | 2008-08-28 12:52 | 雑感

「ボマルツォのどんぐり」の会のこと

c0154961_1893431.jpg  先日の5月20日に高円寺の古本酒場「コクテイル」で催された、「ボマルツォのどんぐり」の刊行記念の会に参加しました。著者の扉野良人さんと私が古くからの知り合いということもあって、お誘いを受けたのです。気心の知れた人たちが著者の扉野さんを囲んで、思い思いに刊行を祝う雰囲気のよい会でした。
 扉野さんとの出会いは、かれこれ25年ほど前のことになります。著書の中に「戦後民主主義の少女と手作り」というタイトルで、扉野さんは、自身のお母さんのことに触れられていますが、私が大学生のころ、友人からそのお母さんを紹介してもらい、ご自宅に何度か遊びに行かせていただきました。お母さんは若者をとても大切にされる方で、貧乏学生の私が遊びに行くと必ずお酒をふるまってくれました。それだけではなく、学生の抽象的な議論にも嫌な顔をせず、それに真摯に付き合ってくれていたことを今でもよく覚えています。若者の議論がさも楽しいといった感じでニコっとされながら……。そういう雰囲気ですから、ご自宅は各界のいろんな人が集まる一種のサロンのような場所でもありました。
 そんな時に、テーブルの隅に坐り、これまた、嫌な顔ひとつせず、ニコニコしながら、年上の兄さんたちの話を脇で聞いていたのが、扉野さんでした。当時彼はまだ中学生になったかならないかぐらいの年齢だったと思います。その彼が本を刊行したのです。なんとまあ、うれしいことでしょう。
 本書は、十数年にわたって扉野さんが「ミニコミ誌」や「同人誌」に書き継いできた文章をまとめたものです。内容は、今では忘れられつつある詩人・作家の紹介やその作品の評価などが中心ですが、文章が、とても味わい深くて、その一つひとつにたたずまいがあるのです。私は正直驚きました。そこには、25年ほど前に初めて出合った時の、彼の人間としてのたたずまいが、そのまま文章になっていたからです。
 扉野さん、いや、迅くん、次作も期待しています、などとは、いっさい申しません。自分の感性のままに、身体から言葉が出てくることがあれば、それをまた少しずつ書き継いでいってください。
 それにしても、私も遠くに来たものです。
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by cranebook | 2008-05-23 18:23 | 雑感

入学式と卒業式のこと

 業務とは関係のないことをつらつらと書くことはよくないことと自戒していたのですが、刊行物関連の話題も久しくないので、今日は書いてしまいます。みなさんお許しください。
 本日、息子の中学の入学式でした。紅白幕に囲まれて、壇上の正面に掲げられた国旗「日の丸」と「市旗」に見つめながら、一時間ほどの間、退屈な時間を過ごしました。ともかく、感情の発露が抑制されている雰囲気にいたたまれないものを感じたのは、私だけではなかったはずです。新入生だけでなく在校生も、いちいち来賓という人物にぺこぺこと頭を下げるわ、司会者の副校長という職務にある人物は、「礼、礼」ばかり言うわで、どないなっとるんじゃ、この式典は。
 ついでに言うと、せっかく厳しい練習を積んで(なにしろ、式が始まる直前まで、新入生の保護者が座っている横で厳しく注意されながら練習していたのですから)、新入生に歓迎のコーラスを披露した在校生の歌が終わっても、聴き終わった者から拍手のひとつも出てこない(いや、二人ぐらいは手をたたいていたか)、この雰囲気は、「厳粛」という名の「抑圧」以外のなにものでもない。
 そういえば、二週間前の小学校の卒業式は、途中から、退屈でバカらしくて、私の気持は「あさって」の方向に浮遊しておりました。
 こんな状況を生みだしたのは、時代のせいなのか、知事の復古趣味なのか、はたまた地域社会の無関心さなのか。いずれにせよ、一人の親として、この状況の共犯者にだけは、今後なるまい、と確認させてくれたこと。そして今日のことを忘れないために書かせていただきました。
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by cranebook | 2008-04-08 17:52 | 雑感